2015年11月28日土曜日

 縄をなう   2015年11月




藁を手に入れるところから、しめ縄づくりは始まる。
時季的には稲刈りをほぼ終えた頃だったが、玉野市の農林水産課のTさんにお願いして、藁を頂ける農家さんを紹介してもらえることになった。さっそく藁をもらいに出向くと、すでに軽トラックの荷台にいっぱいの藁を段取りして下さっていた。





下ごしらえ

先日訪れた旅館に藁を運び、日比でしめ飾り作りを続けて来られた方に一から指導していただく。まず、刈り取った藁はそのまま使える訳ではなく、茎の周りの葉を取り除いてやる必要がある。最初は軍手をはめてしごいていたが、軽トラ一台分となると日が暮れそうだ。そこで「昔は千歯こきでやってたんだけど」という言葉をヒントに、庭の柵を千歯こき代りに使って一気に仕上げる。刈り取って間もない藁はまだ青いので、旅館の室内に吊るして乾燥させることにした。


“手が舞う”こと

下ごしらえを終え、縄を綯(な)う手ほどきを受ける。
藁を手に時計回りと半時計回りの単純な動きを繰り返すだけで丈夫な縄が編み上がってゆくのは不思議で面白い。終戦後しばらく、Iさんの地元では学校から帰った子どもたちは、翌日に履くための草履を二足分つくってから(登校するだけで一足履きつぶしてしまうため)遊びに行ったそうだ。

……そんな昔話を耳にしながら、縄を綯うリズムに没頭しているうち、ぎこちなかった手の動きも幾分なめらかになってくる。「手が舞い出したなー」。作業を見守っていたSさんが、手元を覗いてそう声をかけてくれる。おそらく幼少時に、同じ言葉を周りの大人たちにかけてもらったことだろう。それにしても、手が藁と一体になって“舞う”とは、なんと豊かな表現だろうか。



縄綯いの作業は、傍からみれば退屈な単純労働と思えるかもしれない。ただ、一本の藁から、草履のような日用品、縄跳びなど遊びの道具、しめ縄に至るまで自分の手で作りだせるということは驚きだ。そして、それらのすべてが “舞い” のなかから生み出される。

 







2015年11月20日金曜日

 旅館の跡をたずねる   2015年11月


観賞会からしばくらくして、ひびきなだ文化研究会Fさんより一報が入る。
近く取り壊される予定の旅館を営んでいた建物に入る許可を取り付けて下さったのだ。家財は既に処分されてしまったとはいえ、何か往事を偲ぶものが残されてないだろうか……そんな淡い期待を胸に現地へと足を運んだ。



ちどり旅館

写真のように外観はまだしっかりしている。
建物中央の階段を上って左側には大広間、右側の折れ曲がった廊下沿いには小部屋が連なる。日本旅館に特有の奥へと誘い込まれるような造りだ。二階の家財はきれいに処分されていたが、一階には客用の椀などが僅かに残されている部屋があった。ガランとした建物のなかで、この部屋にだけは人の気配がある。聞けば、地元の女性がしめ飾りをつくる作業場として使っているとのこと。作ったしめ飾りは近所に配っているそうだ。このときはあまり気に留めなかったが、このしめ飾り作りが私たちの活動にとって重要なきっかけとなった。

 


日比の散策

旅館をあとにして、かつての港街の賑わいの跡を求めて周辺を歩いてみるが、空き地ばかりが目立つ。たまたま声をかけてくださった近所の方によれば、遊郭を営んでいた建物はすでに取り壊され、ダンスホールも空き地になってしまった。射的のあった遊技場も近々取り壊す予定だという。「昭和を感じる風景は、ほとんどなくなったなぁ」という案内してくださった方の言葉が身にしみる。




大槌島としめ縄
消えゆく風景のなかに私たちの活動の手がかりを得るのは難しいのか……
そんな想いを抱えながら、明神鼻の小屋にたち寄る。木立のあいだからのぞく大槌島は、湿った空気に霞みながら静かに鎮座している。その変わらない姿にいつにも増して安心感を覚える。八幡宮から見えなくなってしまった大槌島も、ここからはよく見える。
茶会をはじめこの活動は大槌島を中心にした一年だった。そんな一年の節目に、しめ縄を木立のあいだに渡して大槌島を眺めてみたい。そういえば、廃旅館の片隅でしめ飾り作りが続けられていたことも、何かの縁だろう。
夏には大槌島に渡って自生する木の苗を小屋の前に移植した。今はまだ小さな苗が、大槌島と明神鼻をつなぐ緑の参道に育つにはまだ年月がかかるが、大槌島と私たちとのあいだいには既に道が拓かれている。春の茶会では大槌島から猿田彦を招いて御前を努めてもらったからだ。しめ縄は、そんな目には見えない道の存在を示してくれるだろう。私たちには、失われた祭りの復活や再現は出来ないが、祀ることの初源に立ち戻ることになるかもしれない。