2015年8月28日金曜日

■ お菊明神と地踊り   2015年8月

お菊明神
ひびき灘から向日比の集落まで一望できる岬、明神鼻には小さな石の祠がある。正面には菊の文様と「菊大明神」、側面には「天保十四年卯天九月吉辰日、氏子中世話人与吉良繁造、清五良」と刻まれている。この祠は江戸時代、父親に海に投げ込まれ殺(あや)められたと伝えられるお菊を供養した “お菊明神” だ。お菊の身の上に起きた悲劇は次のように伝えられている(※)

……昔、お菊という親孝行な娘が貧しい漁師の家に暮らしていた。ある日、父親との口争いが元となってお菊は縄でしばられ海に投げ入れられ死んでしまう。お菊を可哀想におもった村人は、港の見える岬の上に小さな社を建て供養した。 今もお菊は豊漁と漁場の安全を護ってくれると信じられ、毎年欠かさず祭りが続けられている……

       ※ 河井康夫著『玉野の伝説』昭和53年より要約。
         現在HPで全文が公開されているhttp://tamano.imawamukashi.com/tera/tera-5.html


にわかに信じ難いほど凄惨な内容だ。伝承とはいえ(祠の作られた)幕末の天保14年(1843)はそう遠くない過去、「本当に父に殺されたのか?」「お菊さんは実在の人物か?」そう問いたくもなる。とはいえ、今となっては、どこまでが事実でどこからが創作なのかを確かめるのは難しい。
お菊の伝承に関して確かな事実は、村人がお菊を明神として祀ったこと、いつの頃からか始まったお菊を供養する地踊り(玉野地区に伝わる地踊りのなかで最も古いものだという)が現在にまで伝えられているということだ。幸い、今年発足から50年を迎える地踊り保存会が、明神鼻の小屋の持ち主であるYさんたちによって始められたものという縁もあって、お盆であるこの日、地踊りを見学させてもらえることになった。




お菊さんへの想い
早朝7時、すでに十数名の保存会の面々が集まっていた。「親孝行だったお菊を思いながら踊りましょう」とYさんが声をかけてから踊りが始まる。踊り手の多かった時は、祠を取り巻くくらい大きな輪になって踊っていたという。踊り終えたYさんにあらためてお菊さんのことを尋ねると、「普通の人はお墓に入るけど、良いことをすれば神になれる」と笑顔で応えてくれた。



ところで、お菊の伝説の背景に関心をもつきっかけは、昨年末にYさんの口から “お菊さん” が実在の人物であると聞いたこと、さらに「お菊は自ら身を投げたということを祖母から聞いた」という言葉を聞いたことにある。外部の人間にとって “お菊明神” は地域に残る伝承のひとつに過ぎないが、Yさんにとっての “お菊さん” は同じ土地に生きた実在の人物だ。この想いがなければ弔いの踊りを半世紀続けることは難しいだろう。この日を境に、伝説への関心は「お菊さんは実在の人物か?」から「なぜ、お菊を明神として祀ったのか?」というお菊をまつり伝える側の心情へと移った。

二つの盆踊りの距離
踊り終えたYさんたちは明神鼻を下り、翌日盆踊りが開かれる集落近くの公園へと向かった。こちらの踊りは先祖の霊を供養するためのものだが、二つの盆踊りがあるということが余計にお菊の哀しさを際立たせる。昨年、初めて明神鼻を訪れた際はこのことを知らずに、「お菊の哀話は盆踊りの口説きとして唄われているというから、今は祖霊とともに岬から集落を見守っているのだろうか」とブログに記したが、「祖霊とともに」の部分は、そうあって欲しいという願望からくる感傷的な解釈だったかもしれない。お菊さんの霊は “明神” として祀られたのであって、“祖霊” として弔われた訳ではないからだ。お菊さんの霊はどこへ行ったのか、なぜ お菊さんは村人によって明神として祀られたのか? その心情を理解する手がかりとして、地踊りのための口説きの内容を見ておこう。


口説きで語られたこと
今から40年ほど前に口説きを創作した宮川澄夫氏は「明神さまとしてお菊がまつられた理由については明らかでないし、お菊という人物についてもまた明らかでない」と前置きし、口説きについても「〈伝説を取り入れた物語〉に過ぎないことを十分認識してもらわねばならない」と述べたうえで、次のような物語に脚色している(※)

……お菊の父はもともと釣りの名士であったが、妻に病で先立たれたことで人が変わったように酒に溺れるようになる。ある日、父を諌めたお菊に逆上し徳利を振り下ろし殺めてしまう。父はお菊の亡骸とともに「母さんのもとで一緒に暮らそう」と夜の海に舟を出した。後日、お菊の死体は上がったが、父の消息は知れず……

※ 宮川氏による口説きの全文は、ひびきなだ文化研究会『ひびきなだ〜わがまちの歴史と文化〜資料編』2015p28-30に掲載されている。

父親が妻に先立たれたこと、殺害のあとの後悔と父の行方など、冒頭の『玉野の伝説』と較べると、父の立場に配慮した跡が伺われる。引き続き「明神さまとしてお菊がまつられた理由」についても見てみよう。

 年端もいかぬむすめごが 母への孝養神佛への 深い信心さらにまた
 不幸な最期とげながら その魂は死してなお ふるさと恋しとかえりくる
 おもえば深き因縁ぞと 誰いうとなく語られて 語り継がれているうちに
 いつしかお菊の怨念を 村の守りに祀らんと 港の見える丘の上に 
 ほこらを建てて春秋に 祈る願いは沖に出る 船の安全豊漁をと 
 その名お菊明神と あがめてまつる村人の 心はすでに二百年

注目したいのは、魂は死してなおふるさと恋しとかえりくる……お菊の怨念を村の守りに祀らん” の部分。ここには一片の真実があるように思われる。神として祀られるまでの間、お菊の魂は、他界に逝くことも現世に戻ることもままならず彷徨っていた。お菊の霊に投影されているのは、村人のお菊に対する贖罪意識や霊への恐れ/畏れといった生々しい心情だろう。
ここで想起しておきたいのが、日比の近隣に残されている「みさき信仰」の習俗だ。これは、事故や殺害など不慮の死を遂げた霊、あの世とこの世を彷徨う幽霊の祟りをおそれ、(祖霊とは別に)その霊を祀る民間信仰であり、村境の岬などがその舞台となる。こうした信仰は、お菊を明神として祀り、向日比に二つの盆踊りが継承されてきたことの心情的な理解の手がかりになるかもしれない

 お菊明神との関連だけでなく、御前(みさき)神社と大槌島の大蛇の関係など「みさき信仰」を軸に想像を巡らせるのも楽しい。詳しくは、三浦秀宥(19722000)「中国地方のミサキ」小松和彦編『怪異の民俗学2妖怪』、小嶋博巳(2001)「死霊とミサキ : 備前南部の死神伝承」小松和彦編『怪異の民俗学6幽霊』などを参照。

遺された者の物語として
宮川氏は自らの口説きについて「〈伝説を取り入れた物語〉に過ぎない」と述べていたが、そんな「物語」も「伝説」では語られない背景に迫るリアリティを持つものだった。それは伝説で語られるお菊の身に起きた悲劇が、同時に父親にとっての悲劇でもあったかもしれないということ、そして、お菊を祀った村人たちの経験した悲劇でもあるという背景にまで聴き手の想像力を広げてくれるからだ。お菊の伝承は、こうして、遺された者たちによる後日譚を書き加えながら、これからも語り継がれるだろう。