2015年7月26日日曜日

  浜の清掃・ビーチコーミング     20157

















海開きを前に、水の浦海水浴場の清掃をすることにした。
明神鼻の陰になっている水の浦は、向日比の集落からは見えない。なので、初めてこの浜を訪れる人はちょっとした驚きと開放感を味わうことになる。“海水浴場”といってもシャワーや屋台があるわけではないが、親子連れの海水浴客にとっては、のんびりとプライベートビーチ的雰囲気を味わうことができる穴場の海水浴場となっている。かつては向日比地区の運動会も開かれ、向日比青年研修道場のメンバーが行った救難訓練もここで行われていた。









浜には目立ったゴミはなかった。
たちより1週間前に地元の方が清掃されたとのことで、出遅れてしまった感はあるものの、1時間あまりで7袋分のゴミが集まる。ゴミの内容は、花火の跡や吸い殻といった浜に遊びに来た人が残したゴミもあるが、大半は発砲スチロールやペットボトルといった漂着ゴミだった。おそらく、潮の流れと湾状の地形が、吹きだまりのようにゴミを集めてしまうのだろう。


  ゴミか、宝物か

ところで、浜が集めるのはゴミだけではない
水の浦の清掃を提案してくれたメンバーは、シーグラスを集めてアクセサリーをつくっている。ビーチコーミングの魅力について聞くうち、小屋の魅力に似ているという話になった。



……ある人にとっては「ゴミ」かもしれないけれど、私にとっては「宝物」です。シーグラスを手に、ひとつひとつの持つ歴史に想いを馳せているとワクワクしてきます。そんなところが、なんとなく明神鼻の小屋の存在にも通ずるのでは……

これまで小屋の活動を言葉にして人に伝えることの難しさを感じることが何度かあった。今度は、ビーチコーミングの喩えを交えて話してみてもいいかもしれない。


  自然と文化の波打ち際

それにしても、ビーチコーミングはなぜ魅力的なのか?
まず、単なるガラス片を“シーグラス”にまで加工するのは自然だ。もとの持ち主の手を離れたガラス瓶は、波に砕かれ砂に角を削られてゆくうちに、いつかは砂と見分けが付かなくなるだろう。そんなガラス片が、無数の砂に埋もれる寸前、浜辺に来た誰かの目に留まったときに“宝物”になる。
不思議なのは、以前の記憶が消えかかるときにこそ、こちらの想像力を誘発する何かが宿るということだ。
メンバーのひとりが水の浦で拾った陶器の破片を見て欲しい。遠景に見える鳥たちは巣のある山に帰るところだろうか、近景の花は梅か桃か…… 。さながらポケットに収まる桃源郷といったところだ。

絵付けされた景色は、浜で磨かれたことで靄がかかったような情景となり、小さく欠けてしまったことが、かえって想像の余白を生んでいる。
自然は長い時間をかけ、誰かの所有物を誰のものでもない無主物へ、人の手による人工物を自然物へと解きほぐしてゆく。



  刺身は醤油をつけずに

清掃の後、うのずくり実行委員会が主催する「朝市ごはん会」で遅めの朝食をとる。
鮮魚に並べて売られている焼き魚やフライ、刺身などのおかずを調達し、セルフサービスのご飯とあら汁(セットで100円)をあわせると立派な朝食になる。エビなどをその場で素揚げしてくれる屋台も並ぶ。
瀬戸内海には、海の幸を手軽に味わえる食事処が少ないと感じていたが、こういうスタイルが一番美味しいのだろう。
テーブルを囲んで食事をしていると、家族連れで来ていた幼稚園くらいの女の子が「私も食べたい」と親にねだって食事の輪に加わる。刺身の盛り合わせを前に「ど・れ・に・し・よ・う・か・な〜♪」と食べる順番を“天の神様”に選んでもらっている。ただ、自分の目当ての刺身に止まるまでは、繰り返し唄ってもいいルールのようだ。女の子が醤油をつけないで刺身を食べているのを褒めると誇らし気だ。


*毎週土・日曜(10:0013:00)に開かれている「ご飯会」については、「海の駅」シーサイドマートのHPhttp://www.tamanouoitiba.co.jp/


  台風一過

清掃の数日後、台風が通り過ぎた。
向日比の民家でも被害があったようだ。大槌島から持ち帰った苗(先月のブログを参照)も気になったので様子を見に小屋を訪れる。苗は無事で葉も青々とし、小屋には台風以前に施された修繕のあとがあった。知らない間に青年道場のメンバーが手をまわして下さったようだ。
少しずつ、小屋はあらたな歴史を歩んでいる。


小屋から水の浦に降りると、薄々感じていた心配が的中してしまう。
台風は大量のゴミを運んで来ていた。30分余りでカゴ(これも漂着ゴミの一部)が一杯になるが、浜に散らばっていたゴミを一カ所に集めたというだけで、徒労感が残る。漂着ゴミを入れるゴミ箱を設置しておけばいいのか。ただこれも、定期的に収集してもらうといった別の負担がかかる。なにか良い手だてはないものだろうか。

        *     *     *     *    

浜にはゴミも宝物も漂着する。
そして、浜にはゴミと宝物、人工物と自然物といった既存の区分を融解させる力もある。そのどちらとも言えない揺らぎのなかを愉しむのが、ビーチコーミングなのだろう。
そういえば、日比の浜には神様も流れ着いたこともある。
御前神社(御前八幡宮の前身)の由来は、そもそも讃岐国綾歌郡松山村高屋にあったものが洪水に遭って流れ着いたものであるとされる(今年1月のブログを参照)。
流れ着いのが社殿の残骸(ゴミ)だったのか、御神体そのもの(宝物)であったのかまでは伝えていない。
ただ、この話が、海辺の町にあって単なる作り話とは思えない信憑性を持つということ、死と再生にまつわる隠喩であるということも理解できる。
それはまた、3.11の津浪の後、被災地の漂流物がたどり着いた対岸に住む人たちとの関係を結んだという話も想起させる。
波打ち際は、古来、自然の力と人間の想像力とが響き合う境界領域だ。