2015年3月30日月曜日

 明神鼻の茶会にむけて  2015年3月

3月は茶会の準備に追われた。
茶会は大槌島の山桜の開花にあわせて4月に開かれる。
小屋を茶室として使いたいという思いは、昨年の初夏小屋にたどり着いた私たちのなかに早い段階から育っていた。その年の末、小屋の持ち主から「大槌島の山桜が舞う」イメージを聞いたことが、茶会に向かって動き出すきっかけとなった。お点前を披露していただく亭主は丸亀在住の先生にお願いし、正客は小屋の持ち主に務めていただくことにした。
とはいえ、茶会のプランが完成するまでには紆余曲折があり、完成した時には開催まで残り一ヶ月を切っていた。こうした紆余曲折は、コンセプトを練り上げるうえではかえってプラスに働いたように思う。

 小屋の茶室化

3月の初め、丸亀より先生にお越し頂く。
十人を越える客を一度に相手とする今回は、亭主のお点前は正客と次客のみで、三客以下は水屋からの点て出しとなる。水屋はもとからあったバー・カウンターを利用し、小屋の限られた空間を最大限に活かすためにガラス戸を外してベランダも使う。


また、簡易的なものでいいので床の間を設けてはどうか、と提案された。床の間は、軸の言葉や花に茶会のテーマ(趣向)が託される重要な場だ。言葉は一般的に禅語から選ばれるが、今回の茶会の性格を考えればそれに限る必要はないこと、能面を掛けるといった例もあると教わる。

先生に茶会のテーマを聞かれたが、その場で明快な言葉にすることは出来ず、宿題とさせてもらった。

 道の神、猿田彦の浮上

後日、メンバーで打ち合わせをひらく。懸案のトイレについては、コストや利便性を考えてポータブルテントで間に合わせることにした。新たな問題は、茶会のテーマとなる言葉をどう選ぶかだが、自分たちの活動を一言で表すのは想像以上に難しい。禅語、古事記の一節などが提起されるなかで、一番関心を引いたのは猿田彦だった。


猿田彦は道の神だ。その由来は、天津神が地上に降り立つ際、天上と地上の交わる分岐点にいた猿田彦が、道先案内を努めたことにある。また猿田彦は、ここ日比では(私たちがそのルーツを香川に探っている)御前八幡宮の祭神である。

なぜ、猿田彦なのか? ここまでの向日比の活動には、明確な目的やコンセプトが先立ってあった訳ではない。その都度、ただ場所のもつ力に導かれる様に活動を重ねてきた。まずは岬(明神鼻)、そして小屋を基点に、大槌島、御前神社、さらに対岸の香川へ…
「場所のもつ力に導かれる様に」と書いたが、信仰に厚い時代の人々であれば、そこに半歩先を進んで道を照らす神を見たかもしれない。道の神は、古くは「岐(くなと)の神」とも称された。これは道の分路を意味する。道=岐の神である猿田彦には、ふだん出逢うことのない様々なものを繋ぐ力が備わっている。
こうして、床の間に猿田彦の面を飾り、猿田彦に縁の深い椿を活けるプランが生まれた。

 床の間の提案

私たちが茶会のテーマを煮詰めているあいだ、先生もプランを用意して下さっていた。一本の青竹を置くことで床の間に見立て、そこに山桜と色紙を添える。色紙の言葉は「下載清風(あさいせいふう)」。積荷を降ろした船が、清風を受けて軽やかに帰路につく。かつて小屋で活動した青年道場の面々を思い浮かべ、この言葉を選ばれた。




 桜 と 椿 〜収斂するイメージ

こうして、二つのイメージが形を結びはじめる。ただ、会期の迫るなかで一つのプランに擦り合わせる作業は容易ではなかった。

まず、茶会を私たちの活動を表現するものとすれば猿田彦は捨て難い。そこで、先生も交えた話し合いのなかで、猿田彦には待合いから茶室までの道案内も努めてもらい、床を飾る言葉には「道」に関するものを選んで頂くという案に一度はまとまりかけた。しかし、すぐ後にメンバーから「花見と正客を中心とする茶会の趣旨からすれば、猿田彦というコンセプトが前に出過ぎているのでは?」という声があがった。そこで、この茶会に至る「そもそもの動機」に立ち戻ったうえで、茶会のプランを決めるべく最終的な話し合いをもつことになった。

茶会の原点はどこにあるのか? それは、昨年岬の小屋にたどり着いた私たちが、この土地から感じていたイメージと小屋の持ち主の語った山桜のイメージが重なった瞬間にある。そう考えれば、茶会に託したいのは、この小屋に詰まっていた思いが、私たちの活動の現在と交差し、未来へと繋がってゆく様である。
茶会を介して過去と未来とが引き合わされる。原点を確認したことで、ようやく、両立の難しかった二つの要素を一つにする糸口が見つかる。まず、亭主と正客を中心とした茶会の前半は「下載清風」をテーマに据える。次いで座談となる後半は、椿を手にした猿田彦の登場とともに始まる。狂言風の口上を述べ、静から動へと舞台が転調する。前半の賓客が道場のメンバーならば、後半は猿田彦だ。山桜は椿へと繋がる。このように茶会全体にストーリーが吹き込まれることで、二つのイメージは無理なく時間の流れのなかに配置されたように思う。この案には、先生からも賛同を頂いた。

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さんざん頭を抱えた難題も、ひとたび答えが出た後は「なぜ、そこまで難しく考えたのか?」と不思議に思えるものだ。どちらを優先させるかという議論の前に、なぜ最初から二つを茶会の前・後半に分けることに思い至らなかったのか、と。しかし、最初からそうした解き方をしていれば、今回の案にはたどり着かなかっただろう。「二つの要素を一つに収める」という難題に妥協のない議論が尽くされることで初めて、茶会の原点が明らかになり、下載清風と猿田彦、桜と椿の “いずれか” ではなく、“いずれも” 必要であることが自分たちに理解されたからだ。